半襟の歴史

衿元を美しく見せるという風俗は、わが国でも古くからあり、平安時代の後期、11世紀に成立した「女房装束」にすでに始まっています。 襲着(かさねぎ)によって生まれる「襲色目」の美しさは衿元、袖口、裾に見られます。 この伝統は「小袖」が主体性をもつようになってからも受け継がれ、16世紀初めの著作になる武家の公私の心得などを記した『宗五大草紙』には、 「三ツえりに物を着候事、児、若衆など、えりを色えて、うつくしく見せ候はんためにて候・・・」と述べられています。

江戸時代の半襟について

江戸時代になって、「結髪」が発達し、衿を抜いて着る着付けが一般化したのにともなって、長襦袢に刺繍などを施した半衿が掛けられるようになりました。 江戸時代後期には、京都や大坂では「黒襦子の無地」あるいは「黒縮緬に白糸で細かい刺繍」、「文様染」の衿を、江戸では「紫の鹿の子絞り」、 「茶の絞り」などの衿を掛け、娘はもっぱら「緋の鹿の子や絞り」、あるいは「緋縮緬に金糸で網目や麻の葉を刺繍したもの」が用いられていたと『守貞漫稿』に記されています。

明治時代の半襟について

明治時代も、江戸時代の延長で黒地が好まれました。明治30年前後から半衿への関心が高まり、半衿専門店が京都、大阪、東京に店開きをしました。 半衿専用の生地として、「耳付の衿地」が織り出されたのも明治29年のことでした。こうした趨勢は、日露戦争の勝利による国民の意気軒昂とあいまって、 衣服の色彩も派手になり、文様も自由奔放なものになってゆきました。明治38〜39年に東京で流行した「元禄模様」はその一例であり、半衿にも元禄模様が一世を風靡しました。

大正3年に勃発した第一次世界大戦に参戦したわが国は、未曽有の好況に恵まれ、衣服の好みも一層派手になりました。 半衿はおしゃれのポイントとして全盛期を迎えます。生地の風合い、文様は季節によって使い分けられ、変化に富んだものになりました。 また、御大典や歌会始めの勅題にちなんだものなど時流に乗った文様の流行も見られるようになりました。

古くから衿元の美に深い関心が払われてきたおしゃれは、刺繍や友禅の華麗な半衿として幅広い年代の女性から愛されています。

半襟の荒川

明治19年(1886年)2月、店祖・荒川益次郎が「半衿服飾品並びに染呉服の製造卸売業」を創業しました。
大正はじめ頃には、すでに京都屈指の大商店として「綾小路」といえば、業界の通用語として「荒川商店」を指すほどにいたります。
昭和6年12月に「株式会社荒川益次郎商店」に改組し、企業の基礎を確立しました。昭和17年企業整備により、「和装製品及び絹人絹織物の卸売登録店」になり、 昭和19年に社名を「荒川株式会社」と改めました。
戦後の昭和22年に「和装製品生産卸売及び絹人絹織物卸売の登録店」となり、昭和24年の絹人絹織物の統制が解除されるとともに、「和装製品の製造卸売業」に復帰しました。
半衿は、荒川創業以来125年以上の信用と実績を誇り、数々の和装製品の中でも逸品としての定評があります。

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